韓国の儒教による弊害

ネットでは「対等の関係を結ぶという概念がない」とまで言われる序列社会の韓国だが、その原因が儒教朱子学)にあることはよく知られている。

 

また、韓国の「謎の上から目線」「自己中心的な正義観」「頻繁に嘘をつく」「約束を破る」「被害者ビジネス」なども儒教から発生した文化と言えるだろう。日本人が違和感を感じる韓国人の言動の多くが儒教由来だが、儒教を受け入れた中国や日本では、韓国ほど厳密な道徳的上下関係を持たないし、他者に対する排他性も強く出てこない。

 

なぜ韓国は、あらゆる事柄を道徳的な上下関係に置き換え、善か悪か、勝つか負けるかに還元してしまうのか?どうしてあそこまで現実や史実を無視してまで、非論理的になれるのだろうか?

 

儒教における「理」は、天から与えられた善であり、決して論理的なものではない。李氏朝鮮ではこの「理」を語るために理気論争を行い、敗北した官僚の大規模粛清「士禍」まで起きた。論争で勝った側は、道徳的権威とともに権力と富を独占できた。こうした「理」への偏りが、現実よりも観念を優先させる韓国の風潮を生んでいるのだろう。自分の考える、あるべき理想の姿がなにより重要なのだ。それが例えば、法律よりも(自分の考える)正義を優越させる「国民情緒法」という形にも表れている。極めて独善的な解釈によって、事実やルールを歪めてしまう。

 

また、儒教における「孝」は親に従うこと、「悌」は兄や年長者に従うことで、共に根本的な徳目として重視されている。1908年に反日武装運動初の全国規模の義兵組織「13道倡義軍」が結成され、ソウル進撃を試みる。ところが、総大将の李麟栄は父の訃報を受け、喪に服するために帰郷してしまう。結果、義兵は日本軍に敗北する。軍事的合理性で言えば、信じがたい敵前逃亡のエピソードだ。

 

韓国では現在でも「孝」が重視され、家族内での上下関係や縁故採用など、血縁の繋がりを社会関係の秩序の根幹と見なしている。大統領ですら家族主義から無縁でいられず、縁者への利益誘導や不正によって退任後に逮捕される例が枚挙にいとまがない。不正や嘘をついてでも家族を守る意識が強く、公よりも個人(家族)の繋がりを最優先させる。

 

儒教徳治主義は、家族間の「孝」を根本としながら、地域統治、国家統治まで延長していく考え方だ。これは「礼」と呼ばれ、上下関係を固定することで、臣民を統治するために考え出された。李氏朝鮮では朱子家礼や,農村における郷約によって「礼」が中国以上に徹底され、徳の高い者や目上の者には絶対服従の序列社会が形成された。韓国人が他国を「父」や「兄弟」などと擬制血縁関係で語るのも、これに由来している。

 

韓国では、父系血縁集団の「宗族」を核にした身内を「ウリ」と考え、内輪の狭い世界だけを仲間だと考える傾向がある。そこから排除された他人は「ナム」と呼ばれ、攻撃対象になる。「ウリ」の範囲はその時々で拡大し、韓国全体が「ウリ」になることもあれば、日本人が世界的な活躍をした際には、「我々アジアの誇り」という具合にアジア全体を「ウリ」に入れる。

 

仲間以外は敵という発想は、日本人から見れば不気味な思想である。だが、儒教の思想を巡って数百年対立を繰り返したり、仏教や陽明学儒教の一派)などの他宗教を徹底的に排除する歴史を見ると、朱子学の排他性が大きく影響しているのだろう。儒教の本場中国では科挙をほとんどの身分の人間が受けることができたが、李氏朝鮮では応試資格を制限し、両班階級が合格者の大部分を占めていたという。そのため世襲身分が固定化し新興勢力との党争が激化していった。そこで理論闘争に敗れれば、処刑や追放をされてしまう。韓国が隙あらば声高に正統性の主張を繰り返すのは、道徳的優位性の確保が生死を分けるほど重要だったことに起源を持っている。

 

身分制の固定化した李氏朝鮮で、一発逆転の機会であるはずの、科挙を受ける資格をもらえない人間はどうなってしまうのか?ひたすら「恨(ハン)」を溜め込むしかないのである。過酷な上下関係の中で下位に置かれた民衆の不満の行き所はどこにもなく、不満の累積と解消願望が「恨」となり現れる。李氏朝鮮では「恨」の解消は一時的にしか起こりえなかったが、現代では「正義の被害者」として「恨」の解消を行うことができる。韓国人のデモ好きや「私が被害者である」という主張は、上下関係を逆転させる絶好の機会であり、道徳的優位性を全面に押し出す、まさに正義の執行なのだろう。

 

韓国の反日ナショナリズムの根底には様々な「恨」が含まれている。儒教的な文脈で中華の正統な後継者を自称する「小中華思想」の韓国にとっては、辺境の島国である日本によって、戦争もせずに併合されたことが耐えがたい屈辱の歴史である。日本は夷狄(未開の民)という前提から始まり、朝鮮の先進技術を百済朝鮮通信使が伝えたのにも関わらず、悪辣な軍事侵略を行った恩知らずな輩という筋書きだ。加えて、身近な序列社会のうっぷんが、絶対悪である日本(日帝)への攻撃に変換されている。日本より徳が高いと考える韓国の、一方的な視点から導かれた正義の反日なのだ。

 

儒教は日本や中国ではこのような影響をもたらしていない。排他性を加速させ、序列社会を徹底し、「恨」を増幅させた韓国特有の儒教理解によるものだ。それによって、善か悪か、勝つか負けるかという二項対立的な世界観を維持することになった。

 

道徳的優位性への異様なこだわりも、中華の正統な後継者を自称しながら、現実世界では清に服従せざるを得なかった事情と関係が深い。「東方礼儀の国」を自称する韓国だが、本来は中国に「礼」を尽くす東方の国という意味が、「考」などの「礼」を守る礼儀正しい国という風に変換されている。

 

現在では、あくまで身内に対する「考」であって、他人や他国に対する礼儀ではないことに注意が必要だ。特に日本に対しては格好の攻撃対象であり、日本を不道徳であると批判する行為そのものが、道徳的な正義で徳の高い行為という発想なのだ。

 

日本を格下扱いしたい韓国と、まともな二国関係が結べるとは思わない方がいいだろう。日本をおとしめることが、韓国にとっての儒教的な正しい序列関係であり、正しい礼儀ということになるのだ。

 

 

参考


https://japanese.joins.com/article/862/248862.html
中央日報日本語版 2019年01月08日
韓日間の葛藤事案に関する限り、韓国には思想と良心の自由、表現の自由が事実上存在しないと言っても過言ではない。このような現実を植民支配の傷だけで説明することができるだろうか。道徳より現実を重視する日本に道徳のものさしだけ突きつけているから互いに接点を探せない。永遠の平行線だ。

 

 

 

nikkan.hateblo.jp

 

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